全てに意味はない。という気づき
「全てに意味はない」
このように唐突に切り出すと、意識は「?」となると思います。
或いは、ある種の極端な表現に聴こえるかもしれません。
頭で理解しようとすると、
それは、ニヒリズムや刹那主義への連想に繋がるかもしれません。
瞑想や禅、リラクゼーション法などで精神を落ち着かせ、
「無念無想の境地」の入り口がフィーリングでなんとなく感じられるようになると、
その時その時の流れに身をまかせ、
あるがままに在るだけでよいと気づく瞬間があります。
あるがままに在ると、
マインド(思考)が静まり、頭で意味付けを行わなくなるので、
物事をあるがままに、シンプルに捉えるようになります。
悟りとは、目指すものでもなく、
「ただ在る状態」
その状態そのものだと思います。
その瞬間の感覚こそが、気づきだと思います。
その状態に在る間は、時間と空間の感覚はぼやけ、我を忘れます。
意識が今に目覚め、現実に向けられた瞬間に「ハッと」我に返ります。
悟っても、意識と世界の見え方(認識)が変わるだけで、
物質レベルでの現実は何も変わらないのです。
辛いことも、悲しいことも、嬉しいことも、楽しいことも、
自分がどう捉えるかだけの問題で、
起こっている現象に対しての自己意識の捉え方が変わるだけです。
悟りとは一瞬の気づきであり、
一瞬で過ぎ去っていくものです。
悟ると、悟ることすらも意味のないことであるという気づきがあります。
その体験すらも手放すのです。
悟りを得るために、特別な修行は必要ないと思いますが、
何かのきっかけでその瞬間が訪れた時に、
悟ったということすら錯覚であると自覚し、
その錯覚はできるだけ早く手放す必要があると思います。
なぜなら、その瞬間に起こったことは、
次の瞬間は過去になるので、
過去の記憶を抱えたままになるからです。
さらに、過去、現在、未来の概念すら意味のないことであると気づくようになります。
記憶の再生は、今、起こっていることではないので、
幻想あるいは想像なのです。
起こったことは受け流し、
次々と起こる現実をただ観察し、あるがままの状態に在るのです。
何かのきっかけで波動が落ちると、
悟り(のような)体験で感じた気づきさえもあやふやになってきます。
常に、波動が高い状態を維持できればよいのですが、
世の中で生活をする以上、常に様々なエネルギーの影響を受けますので、
常に、自分自身で波動を整える「メンテナンス」をし続ける必要があります。
もしかしたら、この日々の「心身のメンテナンス」こそが修行なのかもしれません。
ほとんどの現象は、自我(エゴ)が生み出した幻想です。
我々は、それを自覚することなく、幻想と錯覚で毎日を過ごしているのです。
自我(エゴ)は、あの手、この手で、巧妙に様々な現象を引き寄せます。
今に目覚めると、この現象を客観的に観察できるようになります。
「自我」と「直感」の区別が感覚でなんとなくわかるようになります。
そして、辛いことが起こったとしても、「直感」で早く対処できるようになります。
良いことが起こっても、長く余韻に浸り過ぎずに、自然に早く手放すようになります。
私は、個人的にライフワークで心の癒しセラピーを行っていますが、
悟った人(目覚めた人)に対して、セラピーやセッションは全く必要のないものです。
なぜなら、自分自身の「直感」で解決(自己回復)できることに気がつくからです。
本当の自己は何が最適かを「直感」で知っているので、
科学的な根拠を探したり、そのエビデンスとなる情報をいろいろ集めたり、
スピリチュアル的なことに抵抗を感じたり、
またはスピリチュアル的な意味付けをすることも意味のないことなのです。
自己の中の魂意識と繋がり、高次元の意識(宇宙意識)と繋がることができるので、
自然に解決方法を知ることができるようになります。
高次元の意識(宇宙意識)というのは、空間にある精妙なエネルギーです。
私は、このようなスピリチュアル的な表現の使用にとても抵抗があるのですが、
(この感覚は、言葉や文字で説明するのは難しいのですが、)
頭で理解することではなく感じることなので、この感覚がわかる方には、伝わると思います。
五感を超えた感覚なので、わかならくても、全く問題ありません。
自覚していないだけで、誰しもが持っている感覚だからです。
大事なのは、悟りを求めることではなく、
何かに答えを求めることでもなく、
常に、自分の心身の状態をクリアーで快適な状態に保つことです。
身体の健康、心の健康、身の回りの整理整頓。
シンプルに、シンプルに。
全てに意味はないけれども、
一瞬一瞬に意味付けをしようとする自我(エゴ)の罠にはまらないように、
あるがままにシンプルに。
今日も、気楽に快適な人生を。
0コメント